広島地方裁判所 昭和50年(ワ)37号 判決 1978年5月23日
原告 小林勝
<ほか二名>
右原告ら訴訟代理人弁護士 鶴敍
被告 学校法人尾道学園
右代表者理事 金尾馨
右訴訟代理人弁護士 島田徳郎
同 博田東平
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
一、双方の申立
原告らは、「被告は、原告小林勝(以下、原告勝という)に対し金三、三〇〇万円、原告小林義明(以下、原告義明という)及び原告小林麗子(以下、原告麗子という)に対し各金五五〇万円並びにこれらに対する昭和五〇年二月八日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求めた。
被告は、主文同旨の判決を求めた。
二、原告らの請求原因
(一) 原告ら及び被告の地位
原告勝は、昭和二九年九月七日父原告義明、母原告麗子との間に出生し、昭和四五年四月私立高等学校である被告学園に入学し、体操部に入部していた。
(二) 本件事故の発生
1 原告勝は、被告学園三年在学中の昭和四七年八月一八日全日本ジュニア体操競技選手権大会(以下、ジュニア大会という)出場のため、被告学園教諭で同学園体操部監督の訴外行里富保(以下、行里教諭という)の引率で上京の途中、同教諭の指示により同教諭の母校である愛知県豊田市所在の中京大学の体育館において、いわゆるウルトラCに属する難演技である鉄棒自由問題の「後方屈身二回宙返り下り」の技(以下、本件技という)を練習中、床面に転落し、頸髄損傷、第四頸椎前方脱臼の傷害を受けた(以下、これを本件事故という)。
2 原告勝は、受傷後直ちに豊田市の加茂病院に入院し、同年一一月九日には、呉市の中国労災病院に転院して治療を受けたが、昭和四九年四月二一日同病院を退院し、以後実祖父方で祖父母の付添のもとに療養を続けている。
3 現在原告勝は、意識、言語は正常人と変わらない状態でありながら、両上肢の著しい障害、両下肢の完全麻痺をきたし、排尿、排便も単独ではなし得ず、日常生活にも支障を生ずるため、常に付添人の看護を要する状態である。
(三) 本件事故に至るまでの経過
1 被告学園の体操部の練習は、正月三日間及び盆の間に休む程度で一年中行なわれ、特に土、日曜は激しい練習が行なわれた。
2 原告勝は、昭和四五年夏休みに、行里教諭の指導の下に被告学園体育館でつり輪を練習中、つり輪が切れたため床面に転落して腰部を強打し、数日間歩行不能となった。
右受傷のため高校二年(昭和四六年)の一学期のとき、原告勝の腰痛は特に悪化したが、行里教諭は、原告勝に手術を受けさせようとせず、練習を続行させたため原告勝の腰痛は継続し、時折病院で痛み止めの注射を打ってもらうなどの状態が本件事故時まで続き、原告勝の体調は悪化していた。
3 そして、原告勝が高校三年生(昭和四七年)になってからは、試合出場回数も増加し、連日猛練習が続いていたが、原告勝は、同年八月一九日東京で開催されるジュニア大会に出場することとなり、途中中京大学体育館で練習をするため、同月一六日午後七時ごろ行里教諭の運転する普通乗用自動車で尾道市を出発し、車内で一夜を過ごして、翌一七日正午ごろ同大学体育館に到着し、直ちに夕刻まで練習を行ない、その夜は中京大学寮に宿泊した。
しかして翌一八日原告勝は、前記腰痛やそれまでの炎暑下の練習や試合参加に加え、同大学体育館に赴く途中自動車内で一夜を過ごすなど心身の疲労が蓄積した状態のまま朝から練習を行なったため、本件事故発生に至ったものである。
4 なお原告勝は、行里教諭の指導の下に昭和四七年七月ごろから本件技を練習し、試合に用いたこともあるが、手をついたり、尻餅をついたりあるいは背中を強打したりして成功したことはなかった。
(四) 被告の責任
1 高等学校の生徒は、心身の発達途上にあり、運動の技術も完成の域に達していないのが通常であり、特に体操競技は、技の高度化に伴い、その練習には特に慎重な配慮が必要であり、難演技の練習については、生徒の健康管理を十分に行ない必要に応じて医師の診断を受けさせ、事故発生に備えての人的物的危険防止措置がとられ、選手の安全が確保されてはじめて、指導者の下で練習を行ないうるものである。
2 しかるに行里教諭は、原告勝を夜行自動車で中京大学まで連れて行き、前記の如く体調が悪化し休養等を必要としている原告勝に対し、医師の診断を受けさせることもなく体操練習に参加させ、また本来段階を追って慎重に練習すべき難演技練習を、危険防止の対策をとることなく短期間に行なわせたため、本件事故が発生したのである。しかして原告勝のジュニア大会出場及びその練習は、被告学園の学校教育の一環として行なわれたものであるから、被告学園は、行里教諭の使用者として民法七一五条により、同教諭が原告らに与えた損害を賠償する責任がある。
(五) 原告らの損害
1 本件事故により、原告勝は、生涯再起不能の状態に陥り、両親である原告義明、同麗子は、原告勝を抱え、その悲惨さははかり知れない。
そこで原告らの受けた損害額は、財産的損害及び慰藉料を包括すると、原告勝につき三、〇〇〇万円、原告義明、同麗子につき各五〇〇万円となる。
2 本件訴訟は難事件であり、原告らは、これを弁護士に委任せざるをえなかったから、弁護士費用としては、原告らの損害額の各一割が相当である。
(六) よって原告らは、被告学園に対し不法行為に基づく損害賠償として、原告勝につき三、三〇〇万円、原告義明、同麗子につき各五五〇万円及びこれらに対する不法行為の日の後である昭和五〇年二月八日(本件訴状送達の日の翌日)から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
三、請求原因に対する被告の答弁
(一) 請求原因(一)の事実は認める。
(二) 同(二)の1の事実のうち、本件技が難演技であること、原告勝が床面に転落したことは争うが、その余は認める。2の事実は認める。3の事実は争う。
(三) 同(三)の1の事実は争う。2の事実のうち、昭和四五年の夏休みに原告勝がつり輪を練習中、つり輪が切れて同人が落ちたこと、原告勝が、昭和四六年七月上旬ごろから同年八月上旬ごろまで腰痛を訴えていたことは認めるが、その余は争う。原告勝がつり輪から落ちた際、行里教諭は、原告勝を病院に行かせたが、診断の結果はさしたることはなかった。また、原告勝が腰痛を訴えた際には、行里教諭は、原告勝の練習を休ませ、適切な健康管理に努めている。3の事実のうち、原告勝が、ジュニア大会出場の途中、中京大学体育館で練習するため、八月一六日行里教諭運転の乗用車で尾道市を出発し、車内で一夜を過ごし、翌一七日正午ごろ同大学体育館に到着したこと、同日夜は同大学寮に宿泊したことは認めるが、その余は争う。4の事実のうち、原告勝が行里教諭の指導の下に、昭和四七年七月ごろから本件技を練習し、試合に用いたこともあることは認めるが、その余は争う。
(四) 同(四)のうち、1の事実は認めるが、2の事実は争う。夜間自動車で出発したのは、列車の指定席切符がとれなかったため及び日中の酷暑を避けることとしたためであって、原告勝も希望していたものである。また、原告勝の体調は良好であり、行里教諭も原告勝に十分な休養を与えつつ練習を行なっていたし、本件技も段階的かつ合理的な練習を経て、原告勝が体得していたのであり、原告勝にとっては難演技とはいえない。のみならずジュニア大会は、日本体操協会の主催であるが、原告勝は右大会に個人で参加したものであり、行里教諭も学校参加の場合の監督者としてではなく、日本体操協会の役員として出場選手である原告勝を引率したにすぎないから、右参加は被告学園の事業の執行にはあたらない。
(五) 同(五)の事実は争う。
四、被告の主張
仮に本件事故が、被告学園の事業の執行につき発生したものであるとしても、行里教諭は、高校時代から各種の競技大会において常に上位の成績を占めている、広島県下における有数の体操選手であり、被告学園は、行里教諭を体操指導者として最適であると確認のうえ、体操部の監督として選任したものであり、また被告学園の佐藤暢三校長らは、機会あるごとに行里教諭ら各運動部の監督者に対し、生徒の健康と安全が第一である旨指示し、常時校内を見まわってクラブ活動の状況を監視し、練習の程度、施設や用具の不備等生徒の健康や安全について細心の注意を払っていたから、被告学園は、行里教諭に対する選任監督について何らの過失はない。
五、被告の主張に対する原告らの答弁
争う。
六、証拠関係《省略》
理由
一、原告勝が、昭和二九年九月七日に父原告義明、母原告麗子との間に出生し、昭和四五年四月に私立高等学校である被告学園に入学して、体操部に入部したこと、原告勝は、被告学園三年在学中の昭和四七年八月一八日、ジュニア大会に出場するため被告学園教諭で同学園体操部監督の行里教諭の引率で上京する途中、同教諭の指示により、同教諭の母校である愛知県豊田市所在の中京大学の体育館において、鉄棒自由問題の本件技を練習中鉄棒から転落し、頸髄損傷、第四頸椎前方脱臼の傷害を受けたことは当事者間に争いがない。
二、《証拠省略》によれば、ジュニア大会は、財団法人日本体操協会が主催し、満一四才から二〇才までの昭和四七年度選手登録をすませた者(但し中学生は不要)の中から、各加盟団体(実業団、学生連盟)、所属団体(高体連、中体連)より推薦を受けた者が参加して開かれる、アジア大会の国内予選を兼ねた個人参加の大会であること、原告勝は、昭和四七年八月一日から同月四日まで行なわれた昭和四七年全国高校総合体育大会(高体連、日本体操協会共催)において、個人総合二位の成績をおさめたことから、高体連の推薦を受けて出場することになったこと、右大会に参加する中学、高校生の場合には、引率者一名が認められ、選手及び引率者の旅費と宿泊費(二泊分)は日本体操協会が負担することになっており、原告勝については、指導者の行里教諭が引率者となったこと、同教諭は、同協会の役員の資格を有していること、しかして被告学園は、原告勝が行里教諭に引率されてジュニア大会に参加することを容認したうえ、マネージャーを兼ねて原告勝らに同行した被告学園体操部員(二年生)の周村雅彦の費用を援助したことが認められ、これによれば、ジュニア大会は、個人参加の大会であるとはいえ、原告勝の同大会への出場は、そのための練習も含めて、被告学園のクラブ活動である体操部の活動の成果を、全国的な大会で試すという側面もあることは否定できず、この点でなお被告学園の学校教育の一環としての性格を失わないというべきであり、引率者の行里教諭が、日本体操協会の役員の資格を兼ね備えており、また原告勝と行里教諭の宿泊費等を同協会が負担したことは、この認定の妨げとはならない。
そうとすれば、行里教諭は、被告学園教諭兼同学園体操部監督としての地位に基づいて、被告学園の学校教育の一環としてなされた原告勝のジュニア大会への出場及びそのための中京大学体育館における練習につき、原告勝の生命身体の安全に万全を期す等同原告を保護監督すべき注意義務を免れないものというべきであり、したがって右練習中に発生した本件事故について、行里教諭に右注意義務を怠った過失がある場合には、被告学園は、同教諭の使用者として民法七一五条により、本件事故による損害を賠償する義務を負うものと解される。
三、そこで本件事故発生について、行里教諭に過失があったか否かを考察する。
(一) 原告らは、本件事故発生当時、腰痛や疲労の蓄積等により原告勝の体調が悪化していたにもかかわらず、医師の診断を受けさせることもなく体操練習に参加させたため、本件事故が発生した旨主張するところ、原告勝が、昭和四五年の夏休みにつり輪を練習中、つり輪が切れて落ちたこと、原告勝が昭和四六年七月上旬ごろから同年八月上旬ごろまで腰痛を訴えていたこと、原告勝は、ジュニア大会に出場する途中、中京大学体育館で練習するため、昭和四七年八月一六日行里教諭の運転する普通乗用自動車で尾道市を出発し、車内で一夜を過ごして、翌一七日正午ごろ同大学体育館に到着し、同夜は同大学寮に宿泊したことは当事者間に争いがなく、この事実に《証拠省略》を総合すると、本件事故発生に至るまでの経過について、以下の事実が認められる。
1 原告勝は、昭和四五年(高校一年)の夏休みに被告学園体育館においてつり輪を練習中、つり輪が切れて公式用マット(厚さ五センチメートル)にスポンジ入りマット(厚さ二〇センチメートル)を重ねたものの上にうつ伏せに落ちて腰を打ち、医師の治療を受け、そのときは腰の骨に異常はないとの診断であったが、その後しばらく練習を休んだこと、そして昭和四六年七月上旬ごろから腰痛を訴えるようになり、病院において腰椎々間板ヘルニアと診断されたため、同年八月二日から五日まで行なわれた全国高校総合体育大会には、大事をとって欠場したほか、約一か月の間練習を休んで休養したこと、しかし、その後の競技会において、原告勝は、後記(二)2に詳述するとおり、極めて優秀な成績をおさめたこと。
2 原告勝は、昭和四七年八月一二、一三日尾道工業高校体育館で行なわれた国体県予選に出場した後、ジュニア大会に出場するため、同月一六日午後七時ごろ夕食を終えて、午後八時ごろから被告学園の合宿所で休息し、午後一一時ごろ行里教諭の運転する普通乗用自動車の後部座席に乗り助手席に同乗した前記周村と共に、東京に向かい、翌一七日午前五時ごろ大津インターチェンジに到着して休憩し、午前七時ごろ同所で朝食をとったこと、この間原告勝は、夜を徹して走行する右自動車の後部座席に一人で横になって眠り、大津インターチェンジに到着後も、行里教諭と周村が外のベンチで休んだのに対し、そのまま朝食のため周村に起こされるまで同車内で眠っていたこと。
3 そして同日午前八時ごろ原告勝らの一行は、大津インターチェンジを出発し、午前一〇時ごろ名古屋駅に到着したが、かねて行里教諭は、東京に着いた後は十分な練習ができないことを慮り、途中で中京大学に立寄り、原告勝にコンディション調整のため練習をさせておこうと考えていたことから、同日正午ごろ同大学体育館に赴き、近くで昼食をとって休憩した後、原告勝に、午後二時ごろから午後四時ごろまで全種目について軽い練習をさせ、同夜は同大学寮(合宿所)で夕食、入浴の後、午後一〇時半ごろ周村と同じ部屋で就寝させたこと。
4 翌一八日原告勝は、午前七時半ごろに周村に起こされて起床し、同人や中京大学学生らと共に三〇分程度軽い準備運動を行ない、午前八時ごろ朝食をとって休憩した後、午前一〇時ごろから同大学体育館において準備運動後まずマット運動(床運動の練習も兼ねる)で約三〇分間軽いポイント練習を行ない、引き続いて平行棒を、全習、分習合計約三〇分間行ない、ついで鉄棒に移り、全習を二回程度行なってから、自由問題の前半と後半との分習を行なったがその間下り技として、抱え込み二回宙返り下りを二、三回試みて成功させた後、かねて行里教諭と相談のうえ、ジュニア大会の鉄棒競技の下り技に用いる予定にしていた本件技を、原告勝自身の希望もあって試みたところ、二回目の回転の中途で回転が止まり、そのまま転落したこと。
5 しかして本件事故当時の原告勝の体調については、一八日朝行里教諭が原告勝に尋ね、周村を通じても確認したところによると、原告勝は、前夜よく眠ることができたとのことであり、特段睡眠不足や疲労等を訴えることもなく、また練習でもほとんど失敗はなかったばかりか、一八日のマット運動の際には、入り技として本件技と同種の後方屈身二回宙返りを試みて成功さえするなど、行里教諭の見たところ、調子は極めて良かったこと、また原告勝は、本件事故当時腰痛は感じておらず、本件事故の際も、腰の痛みから回転が止まって転落したものではなかったこと。
以上のとおり認められ(る。)《証拠判断省略》
しかして、本件事故の直接の原因がいかなるものであるかは必ずしも明らかではなく、またつり輪から転落したことによる後遺症が、本件事故当時も残っていたか否かも明確ではないが、右認定事実に照らして、少なくとも睡眠不足や疲労腰痛等により体調が悪化していたため、本件事故が発生したものとは認め難く、仮に原告勝の体調が悪かったとしても、本件の場合、行里教諭においてこれを認識しうるような徴候が全く認められなかったのであるから、この点から、行里教諭は原告勝の本件体操練習を中止させるべきであったともいえない。またそうである以上、仮に原告勝が、ジュニア大会出場にあたり健康診断を受けていなかったとしても、そのこと自体をとりあげて行里教諭の過失を問題とする余地はない。
(二) そこで翻って、行里教諭が原告勝に本件技を行なわせたこと自体の過失の有無について検討する。
原告勝が、昭和四七年七月ごろから本件技を練習し、これを試合に用いたこともあることは当事者間に争いがなく、この事実に、《証拠省略》を総合すると以下の事実が認められる。
1 原告勝は、翠町中学校体操部に在籍していたころから、中学三年のときの中国地区中学生選手権大会で個人総合一位になるなど、体操競技において極めて優秀な成績をおさめており、被告学園の体操部に入って後も、新しい技の習得の速さと演技の感覚の良さとに抜群の才能を示し、鉄棒の下り技をとってみても、中学生時代既に、後方抱え込み(一回)宙返り下りと後方伸身(一回)宙返り下りを体得していたのに加え、被告学園体操部に入って一、二か月後には、後方屈身(一回)宙返り下り、同年六月ごろには、後方伸身宙返り一回ひねり下りの技をそれぞれ体得し、さらに昭和四七年(高校三年)三月ごろから練習を始めた後方抱え込み二回宙返り下りは、同年六月ごろには早くも完成させていたこと、そして原告勝は、同月二三日から二五日にかけて行なわれた中国五県高校体操競技選手権大会で他の選手が本件技を演じていたのを見て刺激を受け、行里教諭の勧めもあって、競技会での高得点をねらって同年七月上旬ごろから本件技の練習を始めたが、行里教諭も原告勝であれば本件技の習得は可能であると考えたため、自らは本件技の経験はなかったものの、文献等で研究しながら原告勝の指導にあたった結果、原告勝は同年八月上旬ごろにはほぼこれを習得するに至っていたこと。
2 この間原告勝は、昭和四五年八月二一、二二日に行なわれた国体県予選会で、一年生ながら個人総合四位となり、昭和四六年八月一八、一九日に行なわれた国体県予選会では個人総合一位になって広島県代表として国体に出場し、床運動で二位になったこと、そして昭和四七年六月一七、一八日に行なわれた全国高校総合体育大会県予選会で個人総合一位(鉄棒一位)になり、その全国大会では個人総合二位となったのであるが、このとき床運動で本件技と同種の後方屈身二回宙返りを用い、これを完璧に演じて種目別で一位になったこと、また同年八月一二、一三日の前記国体県予選会においては、鉄棒で本件技を用い、着地で勢い余って(すなわち回転しすぎて)尻餅をついたが、技としては一応成功し、結局種目別で一位となり、個人総合では二位になったこと。
3 しかして本件技は、本件事故当時実際に演じることができる者は数少なかったものの、後方抱え込み(一回)宙返り下りから後方伸身(一回)宙返り下りを習得し、それに回転能力がつけば習得可能であるいわゆるC級難度程度の技であり、その当時及び現在も禁止技とはされていないこと。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
ところで、確かに本来生徒の心身の健全な発達をはかるために行なわれるべき高校のクラブ活動である体操競技において、ともすれば競技会における高得点獲得をねらうあまり、度を越えた危険な技を試みようとして、ただでさえある程度の危険がつきまとうこの種の競技で、生命身体を必要以上の危険にさらし、それがひいては不幸な結果を招来するという事態がままあることは公知の事実であり、この点未成年者である高校生を保護監督すべき立場にある者としては、十分自戒しなければならないところであるといえる。
しかしながら、少なくとも右認定の素質と技量を備え、かつ段階を経て鉄棒の下り技を習得する等右認定程度の体操技術の習得段階にあった原告勝に関する限りにおいては、行里教諭が同原告に本件技を練習させたことは、それが高校の教育活動としてぜひ必要といえるか否かはさておき、そのこと自体は決して責められるべきものとはいい難い。そしてまた原告勝は、本件事故当時本件技と同種の後方屈身二回宙返りを床運動においては完璧に演じることができ、鉄棒においてもほぼ完成させていたのであるから、前記(一)に認定した原告勝の体調及び練習状況に照らしても、行里教諭が、中京大学体育館において原告勝に本件技の練習をさせたことについて過失があったとも認め難い。
(三) そこでさらに、本件事故当時行里教諭が、危険防止のため適切な措置をとっていたか否かについて検討する。
《証拠省略》によると、本件事故当時鉄棒の下には公式用マット(厚さ五センチメートル)二枚を重ねて敷いた上に、さらにウレタンマット(厚さ三〇センチメートル)一枚が敷いてあったが、原告勝は、その上に頭から落下したこと、原告勝の本件試技の際、行里教諭は、鉄棒から約三メートル離れてこれを見守っていたが補助者として三浦伸一外一名の中京大学体操部員と周村を、それぞれ鉄棒の両側の支柱のすぐそばにつかせていたこと、しかし原告勝は、鉄棒から手を離して空中に飛び出し、回転する際に頭から落下してきたため、右補助者らは、これを抱き止めるすべがなかったこと、が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
しかして、前記(一)、(二)に認定した本件事故当時における原告勝の体操技術の習得状況と体調等に照らし、右の如き危険防止のための措置が不十分であったとは認め難く、結局本件事故は、行里教諭において予期し難い突発事故であったというほかはない。
(四) 以上に検討したほか、原告らは、行里教諭の指導方針や普段の練習方法をも本件事故の原因となったかの如く主張するようであるが、敍上認定に照らし、それ自体としては、本件事故の発生と何ら関係あるものとは認められないし、その他本件全証拠を精査しても、行里教諭の過失を認めるに足りる証拠はない。
そうとすれば、本件事故発生につき行里教諭に過失があったことを前提とする原告らの被告学園に対する請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないことに帰するものといわざるをえない。
四、以上の説示によると、原告らの本訴請求はいずれも失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 森川憲明 裁判官 谷岡武教 裁判官岡田雄一は、転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官 森川憲明)